2026年からコラムを書かせていただくことになりました、ようぴすです。
どうぞよろしくお願いします。
初回のコラムでは、自己紹介を兼ねて、私が就労継続支援B型とともに過ごしてきた15年を振り返ってみたいと思います。楽しいことばかりではありませんでしたが、今の自分につながる大切な時間でもありました。
※なお、ここでお話しするのは、あくまで私個人の経験です。B型事業所の雰囲気や支援の形、感じ方は、事業所や利用者さんによって本当にさまざまです。
これからB型事業所を利用する方や、現在通所されている方が、必ずしも私と同じような経験をするわけではないことを、最初にお伝えしておきたいと思います。
Contents
大学も就活もうまくいかない。たどり着いた先はB型事業所だった。
私はASDの特性があり、強いこだわりがある一方で、人の感情や本音を過剰に感じ取ってしまうところがあります。今思えば、もう少し「スルーする力」や「他者理解」があれば、もっと穏やかに過ごせた場面も多かったはずです。それでも当時は、できないからこそ必死で、結果として波乱の多い15年になりました。
10代から20代前半にかけての私は、「こんな仕事がしたい」という前向きな動機よりも、「怒られたくない」「居場所を失いたくない」という不安に突き動かされていました。高校時代は単位を落とさないことが最優先。試験前の1週間で教科書とノートを丸暗記し、理解が追いつかないまま何とか乗り切る、というやり方でした。
成績だけは良かったため、大学には推薦で進学できました。しかし大学では、記述式の試験に対応できず、友人関係やサークル活動でもつまずき、次第に孤立感が強まっていきました。2回生の頃には体調を崩して通院が始まり、気がつけば4回生。同級生が就職活動を進める中、私は療養しながらの活動で前に進めず、内定がないまま卒業し、4月から無職になりました。
「働きたい。でも失敗して怒られるのが怖い」という矛盾した気持ちを抱えながら、ハローワークの障害者職業相談室に1年間通いました。テレビ局のグッズショップ、郵便局の仕分け、博物館の清掃など、いくつかの職場を紹介してもらいましたが、どれも長くは続きませんでした。
特にしんどかったのは、ジョブコーチが制度上入れない職場や、障がい特性への理解がない担当者のもとで、一方的に注意を受け続ける状況です。困ってもフォローがなく、逃げ場を失って、最後はその場から帰ってしまう。3日続けば良いほうでした。
そんなとき、母から「知り合いがB型事業所をやっているよ。行ってみたら?」と声をかけられました。最初は「障がいのある人の職場?」と戸惑いましたが、「自分にもできることがあるかもしれない」と思い、体験に行くことにしました。
実際に行ってみると、事業所は想像していたよりもずっと自由で、利用者さんたちは明るく温かい雰囲気でした。「ようぴすちゃん、ここ間違えてるでえ!」と笑いながら声をかけてくれる先輩方の多くが40代だと知り、「生き方は本当に人それぞれなんだ」と気づかされました。
さらに、地域での活動を通して出会った人たちの存在も印象に残っています。電動自転車で公共施設を巡り、黙々とリサイクル活動を続ける人。畑仕事をしながら地域の役を担う高齢の方。B型は社会と切り離された場所だと思っていた私にとって、それは「地域とつながる入り口」でした。
最初は迷いもありましたが、謝るべきときに謝ること、お金をいただく仕事の重みを知ることなど、働くうえで大切な姿勢をここで学びました。こうした経験があったからこそ、15年間働き続けてこられたのだと思います。
B型事業所での人との関わりの中で気づいた、コミュニケーションの難しさと大切さ
ここからは、私自身がとても悩み、学びの多かった時期について書きます。
読み進める中で、少し重たく感じる部分があるかもしれませんが、これも「当時の私の受け止め方」であり、すべてのB型事業所や支援の在り方を表すものではありません。
最初に通ったB型事業所は、母の知り合いである初代所長が運営していました。利用者は10名ほどで、毎日通所するのは6名程度。編み物や内職、週1回のカフェ運営などを、落ち着いたペースで行っていました。いま思えば、この安定した空気は所長の采配によるものだったと感じています。
しかし入所5年目、法人全体の経営悪化により別の事業所と合併することになります。利用者は一気に25名ほどに増え、事業所内は急に慌ただしくなりました。環境の変化に追いつけず、職員や利用者の間で不満や悪口が増えていくのを感じるたび、私の心は消耗していきました。
ストレスを溜め込んだ末、内職作業中の些細な出来事をきっかけに感情が爆発します。年上の利用者から強い口調で注意され、限界だった私は相手を責める言葉をぶつけてしまいました。結果的に私が謝る形で収まりましたが、その後も疲れは抜けず、半年後に11年間通った事業所を離れることになりました。
いま振り返ると障がい特性によるこだわりや感情の出やすさを「そういう人なんだ」と理解できていれば、衝突は避けられたかもしれません。職員との間でも、作業のペースや事業所内でのルールを、感情的になる前に確認することはできたはずです。
この経験は厳しいものでしたが、今の私の人間関係の土台になっています。分かり合えない前提に立ち、それでも伝えようとする。その姿勢を学びました。
B型事業所で『書く仕事』に向き合って見えたもの
最初の事業所を離れたあと、ライティング講座のある大阪の就労移行事業所へ一時期転所しました。それは、「B型事業所が合わなかった」というよりも、自分自身がどんな働き方をしたいのかを、もう一度考え直したかったという気持ちが大きかったからです。Facebookのコミュニティに悩みを書いた際、「情景描写がうまい」と言ってもらえたことがきっかけです。
「障がい者の就労」をテーマにSEO記事を書き、検索1位を取れたこともありましたが、無給だったことや通所の負担もあり、再び京都のB型事業所へ移りました。
2つ目のB型事業所では、事務や経理の仕事が中心でした。新しい分野の知識も身につけたいと思い、ライティングは一度脇に置いて、まずは与えられた仕事に丁寧に取り組むことを意識していました。そんな中で、広報誌の執筆や編集を任されるようになり、再び「書くこと」と向き合う機会が増えていきました。
ちょうどその頃、私は並行してプロのライティングスクールにも通い始めていました。そこでは、文章は「自分の思いを書くもの」だけではなく、「読む人にとって分かりやすく、目的に沿って伝えるもの」だと学びました。文章は何度も直され、赤字が入るのは当たり前で、むしろ修正を重ねることで完成度が高まっていく世界でした。
一方、B型事業所でのライティングは、利用者それぞれの自主性や、その人らしい表現を大切にする考え方が基本にありました。強く直しすぎないこと、生活の中から生まれた言葉を尊重することも、とても大切な価値だとは思っていました。ただ、プロの視点を知ったあとでは「このまま外に出して本当に大丈夫だろうか」と不安になる場面も増えていきました。
直したほうがいいと感じても、どこまで伝えていいのか分からない。かといって、何も言わずに進めることにも、心の中で引っかかりが残る。そんな気持ちを抱えたまま仕事を続けていました。
あるとき、私が作った取材記事が、事業所内で十分な確認がされないままクライアントさんに送られ、クライアントさんご自身が丁寧に添削してくださる出来事がありました。申し訳なさと同時に、「もっと早く共有できていれば」という思いが強く残りました。
この出来事について管理者と話をしたのですが、私の意図がうまく伝わらず「添削されるのが苦手な人」と受け取られてしまいました。本当はその逆で直すことの大切さを知ったからこそ悩んでいたのですが、気持ちを言葉にすることはできませんでした。結果、管理者さんやスタッフさんとの関係を上手に埋めることができず、そのまま退所せざるを得ませんでした。
振り返ると、仕事に対する考え方の違いそのものよりも、「どう伝えるか」「どうすり合わせるか」の難しさに向き合えていなかったのだと思います。
これまで2つの事業所での反省を活かし、現在は在宅利用で「就Bカチカ」に通所しています。
いまは、自分のこだわりを優先しすぎるのではなく、事業所やクライアントの意図を大切にすることを意識しながら、無理のないペースで、楽しく通所しています。
「一人に届けば十分」という気持ちで書くこと。完璧を目指すよりも、伝わることを大切にする姿勢。 そうした考え方が、いまの私を支えてくれています。
まとめ
「就Bカチカ」では、就労継続支援の制度解説記事や、クリエイティブな作業の紹介、SEO記事の執筆に取り組んでいます。現在は、安心できる環境の中で、楽しく通所しながら「書く仕事」と向き合えています。
今後は、トイレリフォームに関する記事や、利用者さん・スタッフさんへのインタビューにも挑戦していきたいと考えています。
振り返ると、紆余曲折の多い15年でしたが、そのすべてが、いまの私にとっての「書く糧」になっています。
B型事業所は、「安心して通える居場所」でもあり、「仕事に向き合う場」でもあり、その形は人それぞれです。
私は回り道を多くしましたが、遠回りだったからこそ、自分に合う関わり方や働き方を見つけることができました。
これからも、穏やかに楽しみながら、ライティングを続けていけたらと思います。











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