こんにちは、くらげです。
最近やったゲームで、劣等感に苦しむ人が出てきて個人的にすごく共感できました。
その人は、自分に才能なんてものはなく、ただの凡人であるということに気づいているのですが、天才へのあこがれがあって、何かを生み出せる人になりたいと思いながら、誰かの模倣をし続けることしかできなくて苦しんでいる人でした。
彼が自分の才能のなさに苦しんでいる理由として、天才の友人が近くにいるというのがあるように私は感じました。
私は、自分が人より出来ないというのを中学生になるまで気づけなかったのですが、「自分が周りより劣っている」というのを自覚することって本当にしんどいものがあるんですよね。
ゲームの主人公は人並のことはできてて、それでも劣等感につぶされそうになっているのを見て、私は「優秀な人間が傍にいると、自分の嫌な部分が浮き彫りになってしまうのだろうな」と感じました。
そのゲームでは、主人公も天才の人も報われないような終わり方をするのですが、すごく良かったです。
そんなわけで今回は、劣等感について書いていこうかなと思います。
1 劣等感を感じる時、どんな感情か
私が劣等感を感じる時というのは、大体「自分が障害者である」と認識するときです。
以前もお話ししましたが、普通へのあこがれが強く、普通になりたいのですが、「普通になりたい」と思うこと自体が普通じゃないことの証明みたいな感じに思っていてあまり考えないようにしています。
自分が障害者である、というのが劣等感につながっていて、「障害者だからこんな簡単な事もできない」であるとか、「今の行動はちょっと障害者っぽかったな」とか思うと、幻聴で笑い声が聞こえたりなどもするので、多分人に見られているというのが嫌なのかもしれません。
からかわれたくないのかも、と思います。後ろ指を指されたくないというか、のけ者にされたくない気持ちが人一倍強いです。
2 私の友人の話
友人の話ですが、健常者を見下すというか、健常者の気持ちがわからない(健常者と分かり合えない)と言う人がいまして。
その方とお話を聴いていると健常者に対して激しい敵意のようなものを感じます。
もしかして過去にひどいことをされたか、もしくは障害を持っていない人に対して強い劣等感とかあるのかなと思います。
その方は寂しがりなのか、よく電話をしたがるのですが、私には電話をしてその人の中で何が起こるのか(他に電話をする相手などがいるらしいのに、何故私をわざわざ選ぶのか)がわからないので期待に応えられず、迷惑をかけているように感じます。
電話に固執しているように感じていて、それ以外では私を尊重してくれるのですが、何故か極端に電話をしたいという気持ちが強いようです。
そのことについて考えてみたのですが、寂しいという感情があるのは前提としてあって、それに加えて気の合う友人と楽しい時間を過ごしたいというか、普通の人のように友達同士で語り合いたいとかあるのかなと思いました。
無意識で、普通になろうとしているというか、その人も多分、人に差別とかされたくなくて、「普通」であることの「模倣」をしているのかな、と勝手に思っています。
人に馬鹿にされたくない気持ちがすごく強いけれど、過去に様々な人たちに馬鹿にされ続けて来たんじゃないかなと勝手に思っています。
ここまで話してきた内容は私が勝手にそう推測しているだけで、詳しいことは本人に聞いてみないと何故私を選ぶのかの答えは出ないのですが、別に私は電話すると体調が悪くなるわけでもないし、そういうのも付き合いを続けていくには重要だと思うので、「たまになら電話してもいい」という結論になりました。
電話の着信音と、会話の始め方が私にとっては恐ろしいのですが、話を始めてしまえばするする話せるし、似た者同士なので理解しあえることもあって、何度も私が縁を切っているのに、縁を切る度に何度も復縁してくれる優しい人です。
3 劣等感を抱えながら生きる~極力前向きに生きてみること~
話がそれてしまったので、また劣等感の話に戻ります。
友人も、私もそうですが、人は誰しもなにかしらのことで劣等感を抱えている生き物だと思います。
例えば、学生だとしたら勉強や運動ができないことで劣等感を感じたり、社会人でも周りと比べて自分はなんてできないんだろうとか思うこともあるかと思います。
劣等感を感じる時というのは、「周りが」とか「社会で認められない」と感じるから、「負けている」とか「劣っている」と思ってしまうのだと思います。
本来、そんなことは感じなくて良い感情だと思うのですが、人間は群れで生きている人間ですので、どうしても「比較」をしてしまう生き物だと思います。
そういうのを乗り越えて、極力劣等感を感じることなく生きるようにするというのが、おそらくは幸せなのではないでしょうか?
職員さんにこの間話してもらった話なのですが「0か1で物事は解決しない」というものがあります。
いつも全力、いつも完璧、というのは人間は出来ないようになっているよう(完璧を求めるなら、機械の方が正確)ですし、「100%出来なくても大丈夫」なように社会って成り立っているようです。
なので「あの人より出来ないから私は出来損ない」とか思わなくていいのですが、私みたいなマイナス思考人間はそう考えてしまいます。
元々は、そんなことを考えることのないお気楽な脳内だったのですが、成長過程で「周りにどう見られているか」ということに執着するようになってしまいました。
あまり、根詰め過ぎずにお気楽だった時の気持ちを思い出して、のんびりと「出来ない自分を肯定してあげること」ができたら多分もう少し生きるのが楽になる気がします。
4 おわりに
いかがでしたでしょうか?
今回は、劣等感についてお話ししました。
肩の力を抜いて、周りと比較するのをやめるのが生きやすくはありますが、やはり周りに同じジャンルの動物がいると、どうしても競争してしまうというか、私が学生だった頃は「誰が駄目で、誰が優秀か」というのを競わせるような雰囲気を感じながら勉強していたので、「何か優れている部分がある子」は褒められるけど、「何もできない私」は親の視界にすら入れないんだと思っていて、「何もできないから、誰の視界にも入らないんだ」と劣等感を募らせていました。
今の学生がどういった生活をしているか、は私にはわからないのですが、やはり私と同じような悩みを持っている「何もできない子」も、もしかしたらいるかもしれません。
私は、大人になってからいろいろできるようになったので、適材適所と言いますか、「自分には何もない」と思っていても本当は優れている部分があるかもしれません。
周りと比べて、「出来ないこと」を探すより、「自分の出来る部分を認めてくれる存在」を見つけることが自分にとって良い影響を与えるかもしれませんね。
今回はここまでとさせていただきます。
この間、結構読まれていますよというような風の噂を聞きまして、こんな私の長い文章を読んでくれている人がいるのか、と嬉しくなりました。
記事を読まれているということが私のモチベーションになっているので、感謝しかないです。
それでは、また次回も良ければお会いしましょう。










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